すこーしむかしの話。
具体的には1916年。現在の茨城県阿見・土浦の湖畔一帯に、大日本帝国海軍航空隊の施設が建設されました。それは大日本帝国海軍の一大拠点と言えるものでした。霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠(こうくうしょう)、予科練(海軍飛行予科練習生)……ここは、日本の近代軍事・航空史において重要な役割を持つことになるのです。
では、少しだけ、その頃の様子を見てみましょう。
海軍航空廠関係の資料動画
※撮影場所:陸上自衛隊 霞ヶ浦駐屯地 広報センター
霞ヶ浦航空隊
戦前の日本では、航空技術の向上に伴って航空戦力の重要性が高まっていきます。航空部隊の規模は次第に拡張され、1922年(大正11年)に日本で3番目の航空隊として、霞ヶ浦海軍航空隊が設置されたのです。その後、日本最大の航空戦力の施設として発展していき、最終的に、1945年(昭和20年)の終戦と共に廃止となります。
実はここには、かの有名な山本五十六 [連合艦隊司令長官・海軍次官]が勤めておりました。当時、山本さんは大佐で、航空隊の副長と航空学校の教頭などを勤めていたそうです。結果として、現在も霞ヶ浦駐屯地内に銅像が立っております。
余談ですが、当時、軍事施設の周囲や霞ヶ浦水域は立ち入り禁止でしたが、逮捕される危険を冒しながらも漁をする住民がいたそうです。
霞ヶ浦飛行場
一帯の大日本帝国海軍航空隊の関連施設の中でも重要なのが、この軍用飛行場です。1921年(大正10年)7月に完成。有名な話では、ツェッペリン号の来航とチャールズ・リンドバーグ夫妻の訪問が挙げられます。戦後、軍事施設の面積は縮小され、霞ヶ浦飛行場については取り壊されることになります。現在、その跡地には、陸上自衛隊霞ヶ浦・土浦駐屯地、茨城大学農学部キャンパス、井関農機、協和発酵キリン、東京医科大学茨城医療センター、茨城県立医療大学がございます。この地域の変遷は、地元の方にとっても「そうなんだ!」という話かもしれませんね!
ツェッペリン号と押収格納庫
ツェッペリンフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した硬式飛行船のことをツェッペリンと言います。枠組みの外皮としてアルミニウムなどの軽金属を被せ、その中には空気より軽い水素ガスを詰められています。ちなみに軟式飛行船は、ガス圧で外形を維持するものを指します。
霞ヶ浦飛行場の歴史として、1番有名な話は1929年8月19日『ツェッペリン号の来航』です。1929年、ドイツのグラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯爵号)を冠したツェッペリン『LZ127』が、北半球周遊を行いました。その際、茨城県阿見の霞ヶ浦飛行場に来航したのです。背景からお伝えすると……日本は第一次世界大戦の戦勝国ですよね。そのため日本はヴェルサイユ条約に基づき、ドイツから飛行船格納庫を押収して、1924年(大正13年)にこの霞ヶ浦飛行場に移設したのです。寸法は、長さ240メートル、高さ35メートル、間口73メートル……で、でかい……。ちなみにこの格納庫は、押収格納庫と呼ばれておりました。歴史が好きな私は、爺ちゃんから押収格納庫のことを聞いていたのですが、その度に欧州格納庫と変換していたことがとても懐かしいです(笑) 話を戻して、ツェッペリン号は当時世界最大の飛行船でした。そのため大きな格納庫があることが寄航条件の1つです。また湖畔にあるので見晴らしが良く、風も穏やかだったことも寄港地選定の理由です。
余談ですが、このとき、上野から土浦への臨時列車が運行されるなど東京からも見物客が押し寄せたんですって。4日間の係留中、観衆は20万〜30万人。「君はツェッペリンを見たか!」という新聞の見出しが流行語になったそうです。また押収格納庫は1943年(昭和18年)に撤去されました。
チャールズ・リンドバーグ
1927年に大西洋単独無着陸飛行をはじめて成し遂げた方です。1931年には北太平洋横断飛行にも成功しています。1931年8月26日、チャールズ・リンドバーグ夫妻が北太平洋航路調査のため来日する際、霞ヶ浦を訪れました。ちなみに、この頃の霞ヶ浦は、外国機が次々と飛来するため、「世界的空港」と言われていたとされています。
第1空廠(第1海軍航空廠)
現在の陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地に位置していた海軍直営の軍需工場(工廠)。主に桜花など海軍戦闘機の開発・製造が行われていました。
桜花
日本海軍が太平洋戦争中に特攻(特殊攻撃)兵器として開発された特殊滑空機。日本初のロケット機。第1海軍航空廠で開発・製造が行われていました。ちなみに桜花は実戦に投入されました。動画内の青い飛行機が桜花です。
霞ヶ浦海軍航空隊関連施設の図
“ 簡潔化で夢と活躍の世界へ ”
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筧田 聡 Satoshi Kakehida
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